MOTアニュアル2014ブログ No.20 メールでQ&A「パラモデル 中野裕介」
こんにちは。学芸員の森です。
さて「MOTアニュアル2014」も、もうあと少しになりました。
さて出品作家のインタビューシリーズですが、今回は、パラモデルの中野裕介さんの回をお届けします。
じつは中野さんは何度か美術館に来ていただいていたのに、正式なインタビューの機会が取れず、今回、改めてメールで質問させていただき、解答を文書でいただきました。
長文にはなりますが、掲載させていただきます。
(最初にいただいた文章はさらに長かったので、ご本人の了承を得て、一部割愛させていただきました。)
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1.今回、中野さんは本をテーマに展示されていますが、中野さんにとって本とはどのようなものなのでしょうか。
幼い頃から、長いテキストに少し挿絵の入った子供向けの読み物、そしてもちろんマンガなど、次から次に読む、本の虫でした。今は普段、近所の大学図書館で働いてもいて、いつも大量の本に囲まれて過ごしています。
このWeb時代、電子書籍・図書館など、情報自体は洪水のように溢れ、優劣の議論もされていますが、やはり、二つの間には位相や機能の差異があるんだな、と思います。
本をいろんなレベルで扱えば扱うほど、作品の中で考えるほど、電子的雰囲気とはまた異なるある感触、モノとしての「本を感じる」ことが、やはり僕自身の充実感としてはまず大事なのかな、と改めて感じました。
それらは単なる情報ではなく、やはり、情報の「模型」であり、オブジェであり、ブロック玩具などに近いものかなあと。
図書館という宇宙模型のような世界の中で、情報をブロック玩具のようにして「遊ぶ」事、たまたま隣り合わせ、意想外の連鎖が産まれる事は、誰にとっても楽しいことだと思います。そして能動的に遊んで、何かを自分なりに創り出して、ようやく自分の「心の」本達になる。心に「書」を持ち、一体化して、「外」へ出ること。そのように想像していくと、物質的な本と電子的な本の意味合いは、かなり接近もしてくるように思います。人間の生や存在自体が、非物質的な出来事と物質的な出来事との混淆の狭間に流れる「水」、あるいは狭間に吹く「風」だとすれば、「本」という存在は、テキスト内容とその外殻(挿絵などのパラテキスト群、または電子環境)の隙間において、実にそうである、というのが今僕が思う、「本」の有り様です。
2.美術図書室を展示の中心に選んだ理由はありますか。
また、図書室に展示した感想を教えてください。
図書室で展示をする中野さん (撮影:後藤武浩)
図書館が好きで、図書館で働き、図書館をよく利用する僕が図書館をモチーフにすることは、自然な成り行きでした。そしてMOTの図書館は日本の美術館の中では最も充実していますし、ここで何か出来ないかな、と単純に思いました。
美術館と図書館を比較して考える時、美術館での展覧会は、全て展覧会記録・図録という形で図書館にアーカイブされ収斂し、そこを胎盤に培養されてゆく、と考えることは、極論ではあるけれど、思考遊戯的には十分可能ではないでしょうか。視点を変えれば、MOTの中枢はもしかしたら美術図書室が担っているかもしれない。あくまで空想遊びに近いニュアンスですけど、そんな視点から何かがまた新しく見えてこないかな、と思いました。
今回、図書館と美術館の立ち位置の顛倒、書物と美術作品の立ち位置の顛倒、という思考遊戯がどれほど示せたかといえば、まだまだです。本来、純粋な図書館でこそ大々的にやるべき実験かもしれない。ただ、今や僕にとって作品はまず、図書館や書物により近いものですし、近くあって欲しいし、何なら来るべき書物に情報を載せたい、その書物を眺めたい、図書館に納めたいから作品を作る、という逆さまの順序が、僕にはしっくりくる感触さえあります。
3.中野さんは、美術館全体を"巨大な架空の書物『Paramodelliana』の建設現場"に見立てましたが、未完の書物のテキストがこれから生まれるとしたら、どのような内容になるでしょうか?
今回は、美術館の建築空間全体を、巨大な架空の書物の生成状態に見立て、そのパラテキスト(G.ジュネットの研究によると、書物の根幹となる「テキスト」を取り囲み延長し、「書物」を形成する周辺諸要素であり、タイトル・表紙・挿絵・図解・目次・帯・序文・あとがき・解説・奥付・註釈・参考文献・参照など)を館内に分散させ、その仮想プランの仕組みの中で「遊ぶ」ことで、「書物」生成の実相を最大限拡張して、模型的・遊戯的に、何かしら示せるのではないか、と作品群を構想しました。
図書室での展示 (撮影:伊奈英次)
その書物の内容面は、パラモデルの一点としての僕の根源に寄り添った、web上で密かにアップデートを続ける流動的な電子テキストと、J.ブスケの著作『傷と出来事』をベースにした、僕自身の草稿テキストにひとまずは基づいています。ただ、それらは常に構想の段階であり、「テキスト(本文)」だけはいつまでも不足した状態ですから、空想的でとめどない「パラテキスト=仮想の遊びの痕跡」のかけら達がその消失点に向かって随時発生し、お互いに影響し合い、予想外の展開で未知の収束に向かって行く、というような空想遊びになればな、と思いました。
模型や註釈の中にイメージとして出て来た、心眼で静かに本を読む盲目の女性、幻肢で本を触り感じる盲目の小人、といった特異な読書像は、共にJ.ブスケの詩想から着想を得たものですが、「盲目の言葉と無言の像」(ドゥルーズ『フーコー』)といった、人間の生におけるある究極の形姿、また「本を感じる」というイメージを最大限讃えるものになったとは思っています。
これらの出来事を眺める観者も、永遠に顕在することのない「テキスト」を自由に想像し、「大きく空虚な物語」を巡り、移り変わり定着することのないパラテキストのかけら達と共に、架空の「書物」編集・生成に遊戯的に寄り添い(それは「編集・出版ごっこ」といってよいかもしれません)、追体験し楽しみ、また、「書物」とは一体何か?という思索を深めるきっかけになれば、と思います。
幼い頃から、子供向け読み物などで感じた、「テキスト」と「挿絵」の内容の間の、永遠に合致しないような不思議な感触が、今回の構想の一番根っこにある動機です。それを拡張した、今回の挑戦が上手くいったとは思いませんし、現在、まだ制作は水面下で続いています。そんな中、通常の意味の「テキスト(本文)」は無くとも、「テキスト(本文)」的内容は、周りに産まれるイメージに押し寄せられながら、非時空間な場に発生しているんじゃないか、という感触はここに来て感じます。
どこまでも感覚しえない「テキスト(本文)」こそがすなわち「本」そのものであり、それはもはや文字としての形状も持たず、本来、ただ心にだけ刻み込まれ得る傷にも似た何か、どこまでも合致しない狭間を通る「水」であり「風」のような、永遠に非在の何か、なのかもしれません。そしてその主語は特定の「私」を超えた「我々」であり、多声的に語られゆく何かだろう、とも感じています。
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じつはパラモデルの展示は最近になっても密かに変化しています。
「未完の書物」が生み出す様々なパラテキストが美術館のあちこちに増殖中です。